びっくりトルコ大周遊10日間 12月15日 コンヤ観光のはずがトルコ授業に

   コンヤ観光のはずがトルコ授業に

 12月14日0640、ウチヒサール カヤホ テルを出発した。今日は640キロあまりのバスで移動することになる。途中コンヤでインジェミナーレ神学校の前10分程度停まり写真撮影の機会を与えられる予定だ。長旅になるのを心配してかシェームスさんが、トルコについて語り始めた。

 「私がガイドを始めたころのトルコの人口は約4000万人でした。それが今は8000万人まで増えています。トルコの国土の広さは日本の土地の広さの倍になる78万平方キロメートルになります。トルコの人口の約20%、約1600万人がイスタンブールに住んでいるのです。トルコにはクルド人、シリア人などいろいろな人種が住んでいます。トルコ人の中で本当のトルコ人と言える人は5~6%にしか過ぎません。

 トルコの歴史は9世紀まで遡ります。(この意見は現在のトルコ共和国建設に至るトルコ人の歴史観によるものらしい)当時モンゴルから豊かな土地を求めて西に移動したテュルク系民族が、ヴァン湖付近に定着したのが始まりです。ですから馬や刀を使う騎馬民族の血を引いています。

 ここで国旗の話をしましょう。サマン(シャーマニズムの意か?)教は三日月を神様として信奉していました。ということでトルコ国旗に三日月があるのです。

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株式会社さらごのHPより引用「トルコ国旗」


 国旗にある星についてですが、9世紀のころはビザンチン帝国の時代でした。ビザンチン帝国はキリスト教を認めていました。1071年トルコとビザンチン帝国の間で戦争が始まりました。ビザンチン軍の兵力は約4万人。対するトルコ軍の兵力は6300人にすぎませんでした。(交戦比:6.4対1)この戦いで負ければ今日のトルコは存在しなかったでしょう。このマラスキットの戦いにトルコ軍は勝ったのです。この戦いで亡くなった兵士の血の海に星が映っていたことから国旗に採用されたと言われています。国旗の赤は戦いで流れた兵士の血を意味しています。

 その後テュルク系民族は広い平野を有するコンヤに定住し農業を営むようになります。シルクロードは中国から始まると思われていますが、京都大学の先生の研究では日本から始まるそうです。シルクロードは日本から始まりメソポタミアからビザンチンへというルートができあがったのです。

 1236年モンゴルの侵入があり戦いに敗れ、住民は各地に分散し各地でトルコ人の村を作りました。その後63年間トルコ人同士の争いが続いたのです。1299年オスマン・トルコ帝国が樹立され、1516年オスマン帝国となり、その最盛期の版図は、アジア、アフリカ、ヨーロッパにまで広がりました。

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世界の歴史マップより引用


 1914年第1次世界大戦でドイツ側に加担し敗戦を迎えます。そして領土が奪い取られ小さくなります。1923年トルコ共和国が設立されました。そのときどこの国より早く国家として認めてくれたのが「日本」、日本なのです。もちろん和歌山県沖で沈没したトルコ船、『エルトゥールル号』の乗組員たちを手厚くもてなしてくれた事実を忘れてはいけません。今も学校教育で教えています

 1923年にトルコ共和国となって、文字がローマ字表記になり、女性の教育が始まり、イスラム教国なのですが学校教育で女性がスカーフを被ることが禁止されました。

 トルコの問題点の一つに読書があります。日本人は年間平均5冊の本を読むと言われます。それに対してトルコ人の平均は6人で1冊という状況です。

 二番目は政治家です。60歳以上の政治家は教育レベルが低く、政策を判断する時に私利私欲が先に出てしまいます。ですから60歳以上の政治家は早く引退するか死んでもらった方がいいのです。(と過激な発言が出た。日本の政治家でも反省すべき点はあるのだが、悪いのは一部の政治家というのが相場なのだ)

 三番目のトルコの問題点は時々軍事政権が登場することです。軍事政権下では経済活動に制約がかかり国の発展を阻害してしまいます。もともとトルコは自給自足の生活が可能な国なのです。それなのに農業が疲弊し自給率が低下しているのが現状です。

 間もなく「隊商宿」に到着します。隊商宿というのは軍隊などが移動するときに使われた宿場町になります。夜盗から旅人を守る役割もしました。隊商宿は40~45キロごとに整備されました。そこで宿泊する場合1泊目は王様が支援するので無料でした。これから見る隊商宿は1473年に再建されたものです。家畜小屋まで完備していました。

 コンヤはイスラム教信者にとっては大事な都市になります。イスラム教には5大義務があります。
①祈ること、
②断食すること、
③メッカへ巡礼すること、
④寄付すること、
⑤神を信用することです。

 まず『お祈り』の義務ですが、毎日、朝、昼、午後、夜、寝る前、と5回お祈りをすることです。ただし、移動中の人はお祈りの義務が課されません。また病気の時に祈らなくても良いことになっています。女の子は11歳、男の子は12歳までこの義務が免除されます。一般に祈り始めるのは大学生、20歳になってからですね。朝の祈りは短く、金曜日の昼の祈りは長くなります。キリスト教のように教区という考え方はありません。お祈りをする前に、手、口、鼻、顔、腕、髪、耳、最後に足の順に体を清めていきます。お祈りはモスクの方向に向かって行います。

 『年に1回断食』をします。これは貧しい人の気持ちを理解するという目的をもって行います。ラマダンの時期は朝から夜の祈りまでの間は飲み食いができません。ですが夜になるとしっかり食べています。この決まりを逆手にとって夜働き昼間寝る人がおります。こうすると昼間の空腹の苦痛を軽減できるのです。ラマダンの時期は毎年2週間ずつずれていきます

 『巡礼の義務』は、サウジのメッカに参拝に行くことです。トルコ人がメッカを巡礼する平均的な年齢は57歳になります。2011年、母を巡礼に行かせましたが、旅費が70万円かかりました。サウジに40日間滞在したし、巡礼後知人にお土産を渡す習慣があり、現地からお土産をたくさん買い求めて帰るので大変な物入りとなります。病人の場合には代参することが許されています。(なぜか森の石松の名前が浮かんだ)

 『寄付』ですが、収入の10%程度を寄付することが求められています。教会付近で物乞いしている人がいますが、ああいう人は貧しくないのです。本当に貧しい人は、お金をください、なんて言いません。

 ある日ホテルで小さな男の子のボーイに目がとまりました。重い荷を担げないのです。事情を聞くと親が交通事故で働けなくなり学校をやめて働きに来ていたのです。彼の家まで行って困っているのを確認し、親に話し子供の教育費として毎月5万円、そして家族の支援金を負担することにしました。彼が大学を卒業するまで私の寄付は続きましたが、今でも親しく付き合っています。(あしながおじさん役?)イスラム教信者は豚肉を食べません。でも法律的には禁止されていません」

 と話し終えたところで「インジェミナーレ神学校」に到着。写真撮影を終えて「メブラーナ博物館」へ向かった。

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 メブラーナ博物館は、元々はメブラーナ教団の創始者ジェラルディン・ルーミーの霊廟だった。面積は6,500平方メートルあり、メブラーナをはじめとする教団の発展に尽くした名僧たちの霊廟、棺桶、資料室、修行場などが現存している。

 そんないわくのある宗教施設なのだが、トルコ共和国ができたとき大統領のアタチュルクの宗教分離政策により教団は解散させられ、1927年に博物館としてオープンされた。一応宗教色は排除されていると思って頂いて、でも博物館に入場する際には女性はスカーフを着用すると思って頂いて、とシェームスさんが女性にスカーフの着用を促した。

 博物館の外観は美しく、装飾を施された教会内部、メブラーナの棺、預言者マホメットのあごひげ1本、何故か1本なのだが、それが入った小箱などが展示されていた。

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 教会内部ではスカーフを被った女性たちがあちこちの床に直に座りお祈りを捧げていた。無宗教の私は場違いな気がして長居する気にはなれず、早々に博物館を出ると徒歩で昼食会場へ向かった。

 昼食会場のレストランは木造の家屋だった。霊廟の近くとあってワインやビールは飲めず、ヨーグルトドリンクとザクロジュースなどがお勧めだった。女性の多くが美容に良いというザクロジュースを頼み、他方男性の多くがヨーグルトドリンクを頼んだ。

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 ヨーグルトドリンクは酸味を感じるが概して飲みやすい。前菜にサラダと褐色のスープが出た。スープが美味しかったのでナンにスープをつけ食べた。これが癖になりナンを数枚食べ終わった頃鶏肉とチーズのピザが4枚出てきてびっくり。たちまちお腹がいっぱいになってしまった。デザートの蜜柑は甘みが豊かで申し分なかった。

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 レストランの一隅には野菜のピクルス、漬け物の容器がたくさん並んでいて驚いた。また金平糖のように小さな乾燥したオクラが数珠つなぎになって吊されていた。オクラ自体は日本のより小ぶりなもので、味は日本のものより美味しい、というのがシェームスさんの言葉だった。

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オクラは右手の数珠つなぎのもの



 食事後バスに乗って走り始めると、またシェームスさんの熱い話が始まった。

「『「ケシの実』、アヘンではありませんよ、ケシの実のオイルは膝の痛みに効くと言われて思って頂いて、是非休憩の時にケシの実がかかったヨーグルトを食べてみてください。

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 ごらんのようにコンヤは広い平原になっています。昔は30メートル掘れば井戸水がとれました。でも気候が変わってきて、今では100メートルも掘らねばなりません。農民が負担する金額も大きくなってきています。

 トルコは石油がとれず輸入しています。イラクの国境付近にクルド人が住んでいます。彼らの石油はトルコのパイプラインを通じてエーゲ海に送り出しています。ツーことでトルコにも外貨が少し入るようになっています。

 トルコの電力の30~35%は水力発電で賄っています。それでは電力が不足するツーので政治家たちは原子力発電を導入しましたが、個人的には反対です。

 1986年4月チェルノブイリ原子力発電所で爆発事故が起きました。チェルノブイリに近い黒海周辺の住民の多くは避難したのですが、残った人々は飛散した放射性物質の影響を受け多くの人がガン患者になりました。当然不動産の価格が下がり、120平方メートルの家が1万3千円で売られるようになりました。

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 コンヤの平野では、ジャガイモ、サトウ大根、トウモロコシなどが作られています。ここではゴマパンも有名です。トロ山脈はヒマラヤ山脈の一部になっていて(ヒマラヤ山脈やトロ山脈を検索したがそういう記述は見受けられなかった)、その南側がエーゲ海に面しています。この地域はリゾート地域として多くのお金持ちがやってきます。学校の夏休みは3ヶ月と長く、学校教員には3ヶ月の長期休暇があります。自由な時間をもらった子供たちにせがまれ多くの親が無理してエーゲ海付近で夏休みを過ごします。そのための資金としてサラ金を使うのでこれがまた問題となっています。

 イスタンブールでは昼食代が1400円から1500円かかります。イスタンブールに住む人の年収は4人家族で月額35万円程度になり、平均するとトルコの中では収入が多いのですが、旦那さん一人の収入では賄えず、農村部は外で働くことを禁じられている女性たちが都会では共稼ぎをすることになります。このため田舎では女性は平均24歳、男性は平均28歳で結婚するのですが、イスタンブールでは女性が平均28歳、男性が平均33歳で結婚するようになっています。また昔より子供の教育費がかかるので田舎より都会の夫婦の子供数が減る傾向にあります。

 黒海地方では栗の蜂蜜がとれます。黒海でとれる栗の蜂蜜が一番お勧めです。(放射能の影響が気になった)またコンヤ平原でとれるザクロジュースもお勧めです。ザクロのジュースはお薬と考えていただいて、ザクロのオイルもお勧めです。ザクロのオイルをつけるとしわが伸びお肌のシミが消えると言われています。あとでザクロの美味しいジュースを差し入れしましょう。

 もう一つオリーブのオイルもお勧めです。オリーブのオイルはドレッシングに使え、肌のためにも良くて、黒くなった種のものが特に美味しいと言われています。(商品紹介の時間到来か)

 次に地震の話をしましょう。1998年4月17日、トルコ北西部のイズミット市でマグニチュード7.2の地震が発生しました。この地震で1万5千人(外務省のHPで確認すると1万7千人)の方が亡くなりました。その時日本は被災者の救出、治療、そして仮設住宅などの支援をしてくれました。トルコはその恩を忘れません。2011年3月11日東日本大震災が発生しました。そのときトルコは32名の海外支援チームを日本に派遣しました。

 明日の朝は雨が降るとの予想なので少し時間が遅くなりますが、ヒエラポリスの遺跡と石灰棚を見に行くことにします。

 パムッカレとは、トルコ語で『綿の宮殿』という意味になります。昔からこのあたりでは綿花が栽培され良質のものがとれます。ということでパムッカレという地名が付きました。ということでコットン製品もお薦めと思って頂いてください。

 ヒエラポリスの遺跡のある台地は石灰岩でできています。雨が降るツーと雨の中に含まれる二酸化炭素などの弱酸性物質の影響で石灰が雨の中に溶け出すと思って頂いて、溶けた水が地下水となって地底の深いところで温められ、地表に温泉となってわき出してくると思って頂いて、地表でお湯が冷えると、お湯の中に含まれている炭酸カルシウム(石灰)が固まってきてると思って頂いて、白い石灰岩の棚を作り出してきたわけです」

 バスは石灰棚を左手に見るように走り、くねくねする道を走って左側の丘の上の駐車場に到着した。そこがヒエラポリス遺跡の入り口であり石灰棚に通ずる道でもあった。
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 パムッカレの石灰岩段丘の一番上にある遺跡。ローマ帝国時代は温泉保養地として栄えたらしい。ローマ帝国時代に地震で破壊されたが、一度再建されたが、再度の大地震の後完全に見捨てられてしまった。ローマ劇場やローマ浴場が残っていると言われるが、時間が無く見ることはかなわなかった。

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 いよいよ石灰棚の温水につかるときが来た。木製の階段のところで靴を脱いで石灰棚の上に立った。冷たい! 痛い! というのが最初の印象だ。見ると多くの中国人が溝に流れるお湯に足をつけている。そのお湯は温かいというよりぬるいという温度であった。少し先に行けば温かい温泉があるに違いない。そう思って50メートルくらい歩いてみたが、どこの水たまりも氷水のように冷たく期待外れであった。ということで石灰棚の上を歩くのを早々にあきらめ見学に専念することにした。

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 石灰棚の周辺を歩いてみて分かったのは、写真で見られるような水をたたえたお皿は見られず、ぬるい温泉がこけの生えた溝を流れているだけでであった。何でも学者たちが水質管理(温度管理?)を間違えたらしく、それ以降白色のお皿が緑濁するので温泉がお皿の上に流されなくなったらしい。雨量の多い持期なら湯量が増えるのかもしれないが、宣伝に掲載される写真が美しいだけにだまされた感はぬぐえない。

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本物の石灰棚の写真(12月撮影)



 この夜はパムッカレのルーカスリバーというホテルで夕食すまし宿泊した。



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